Keiji HORIBÉ

Calligraphie japonaise

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La richesse oubliée de notre écriture 文字は私達の豊かさです

LA RICHESSE OUBLIEE DE NOTRE ECRITURE

Keiji HORIBÉ

 

L'écriture est une invention extraordinaire des humains dans cette planète.

A l'origine, l'homme a évolué en cherchant à préserver et améliorer sa vie unique et précieuse. Pour survivre, nous avons besoin l'un de l'autre, de communiquer pour nous comprendre, nous entraider, nous unir. L'homme a donc élaboré des outils de communication ; le langage oral et très vite l'écriture ont caractérisé notre espèce.

En écrivant, l'homme ne transmet pas seulement des informations : il apprivoise le monde qui l'entoure et met en mouvement son état intérieur. Il véhicule, par son tracé, le flux des émotions qui le traversent. Dans la langue japonaise, nous utilisons, sans le savoir, un tas d'expressions avec la notion de "ki" ou d'"énergie". Nous sommes ainsi traditionnellement très sensibles à cette "chose invisible" ou "ressentie".

 

L'écriture est de "l'énergie" issue de l'intérieur de notre corps. C'est pour cette raison qu'elle est vivante et qu'elle est garante de notre propre existence : chacun d'entre nous hérite des histoires qu'elle transmet et en fait à son tour une expérience unique. Elle a ce pouvoir magique ! En revanche, n'avons-nous pas un petit peu oublié son essence aujourd'hui ?

 

 

 

 

文字は私たちの豊かさです

 

 堀部 桂司 

 

 

  はじめに

 

 フランス、アンジェ市で書道教室を開いてから十年が経ちました。この十年間に扉を叩いてくる生徒さんたちに、私は常に同じ質問を投げかけてきました。「なぜ書道に興味をもったのか、なぜ書道をしたいのか」と。その返事は結局のところ、どれも同じものだったことに最近気付いたのです。「何だか気持ちがいいから」という返事。その「何だか」はよくわからないが、書道は何か「心の平安」をもたらしてくれるものらしいのです。興味を持って来られる方のお話を聞くところ、いつも決まって禅と書道を結びつけたがる傾向もあるようです。

 

さらに、書きたい字を生徒さんに尋ねてみると、いつもたいてい「平和」や「和」、「幸福」「愛」「禅」「気」などといった、何か目には見えないが「気持ちがいいもの」を必ず引き合いに出されるようです。

 

 この経験から見ても、如何に書道が精神性の高い性質を持ち、生徒さんたちを魅了し続けているかということがわかります。「何だか気持ちがいいから」というシンプルな返事。その正体とは、一体何だったのでしょうか。

 

 本稿ではその正体を探りながら、日本語(文字)教育においてそれをどのように活用してゆけばよいかを各先生方が模索していく上で、少しでもヒントになれば幸いです。

 

 

  「気」が満ち溢れる日本文化

 

 日本語には「気」という言葉を使った表現がたくさんあります。「元気」「勇気」「根気」「活気」「天気」「空気」「気持ち」...などをはじめとする名詞形から、「気を付ける」「気を配る」「気合を入れる」...などの動詞形まで、数えると100以上の表現を簡単に見つけることができます。それだけ日本人は意識していなくとも、「気」という概念を持って暮らしていることがこれらの表現を見ても分かります。

 

 しかし、「気」って何でしょうか。「気持ち?」或は、「何か感じるもの?」

「精神?」とかいったような返事を浮かべるかもしれません。それらに共通するものは「何か目には見えないもの」。そんな「何か目には見えないもの」を常に感じながら生活している私たち日本人は、世界に誇れる「気の文化」を持っているのです!(図1

 

 

 

 

 

 

    (図1)「気」の甲骨文字の創作

 

 

 

 

 

 

 「気」という漢字は元々「  」と書き、これは雲が空に流れ、その一方が垂れている形からできた字だそうです。「気」(雲)は命の源、「おおもと」と考えられていたそうです。

 

 気の旧字は「氣」と書き、「米」を含む字であったことは皆さんもご存知かと思います。でも、何故「米」の字があったのか皆さんはご存知でしたか。「気」は「空気」「水蒸気」などとも書いて使いますが、どうやら「米」の字がつくのはこのお米を吹かしたときに出る蒸気の様を結びつけて作られたようです。先人たちの知恵や想像力はすごいですね。

 

気の原字である「  」は、今でも水蒸気を吹かして走る蒸気機関車の「汽車」という字にその名残を見ることができます。

 

 ところで、「お米」は現代でも私たちの主食として欠かせないものとなっています。「お米」の「お」という敬語を付けるぐらいですから、言葉を見ただけでもその大切さを知ることができます。大昔も現在と同様に、「お米」は体を養う源でしたから「氣」と書くと、「すべての活動の源」という意味になり、「空氣」「元氣」「氣力」などといったまさに人間の活動の源・「おおもと」という意味になっていったのだと思います。今では、その「米」の字は省略されて「メ」とされていますが、実はこのような背景が隠されていたのですね。漢字に秘められたこれらの背景を皆さんは「すごい!」と思いませんか。(図2

 

 

 

 

      (図2)「氣」の創作

  文字と人間の本質

 

 それでは次に「文字」について考えていきます。私たちは今日ほとんどの人が文字を使って生活しています。そもそも私達が日常使っている「文字」の本質とは、一体何だったのでしょうか?何故、多くの人は文字を学ぼうとするのでしょうか。この問いかけについて検証していきます。

 

 まず、簡単に「文字」と「言葉」の性質の違いを整理しておきましょう。どちらも似たようなものですが、簡単に言うならば文字は「字」ということで「残るもの」で、言葉はその「その場限り」で口から発せられるもの、といったところでしょうか。現在は録音機の発明により、その場限りで発せられたものも「残す」ことが可能にはなりましたが...

特にこれらの差異を強調するつもりはありませんが、書道家という職業柄、その「書く」という行為(残るもの)に焦点を合わせて本稿を進めていきたいと思います。

 

 それではなぜ、人は文字を学ぼうとするのか。「学校でやらされるから仕方なく...」「字が上手になりたいから...」「学びたいと思う以前に社会で生きていくためには必要不可欠だから...」など、国境や言語の違いを越えて色々な答えがあると思います。皆さんもご存知の通り、大昔は字が読めない人や字が書けない人たちもたくさん存在していました。そういう時代は当然あったのです。でも、文字が誕生することによって何が変わったのでしょうか。文字の誕生の裏側にはどんな背景があったのでしょうか。

 

 私たち人間の祖先はサルだったということは、皆さんも小さい頃勉強しましたね。その真偽のほどは分かりませんが、サルは石をつかい火を起こし、道具をも使うようになり狩猟や漁猟を通して食料を確保していきました。こうして、寿命を延ばしていったのでしょうね。

でも、同じサル同士であっても狩猟や漁猟を行う上での縄張り争いは避けられなかったことは事実でしょう。自分たちの命というものは尊いものですから。このような考え方も人間的な思考でしょうか。

とにかく、どんな時代であってもどんな動物たちであっても、自分の命を守ろうとするのは自然な成り行きのことと思われます。ただ確かな事実であったであろうと思うことは、サルたちは他の動物たちとは異なり、色々な争いを制するために色々と思考を練り重ね、脳を発達させ続けた末に人間へと進化していったのだろうと「思います」。その最終的段階として、言葉や文字の発明へと到達したのではないでしょうか。

 この脳の発達の背景には、サルたちを取り囲む環境(自然や同族あるいは他の動物たちとの関わり)の変化があげられるでしょう。環境はどんどん変化し、発展し、複雑化し、やがて争いの中からの生き残りを賭けたグループ編成(家族構成)も自ずと出来上がっていったのでしょう。これらの発達を繰り返し、現在の社会体系が作り上げられたのは言うまでもありません。これらのサルたちがどうやってこの世界に誕生してきたかを知るのは未知の世界ですが、とにかくこれらのサルたちが存続を賭け、オスとメスの出会いから始まり家族が構成され、小家族から大家族へと広がり、共同体から社会へと発展していき、生活体系は益々複雑化し、拡大していったのでしょうね。

 

 でも、その複雑化する世の中をまとめるにはどうすればいいのか。死を脅かす暴力を使って自分たちのテリトリーを拡大していったのも、ある意味自然な摂理だったかもしれません。

 しかし、暴力だけでの統率にも限界があり、統率者自身においてさえも短命のままで終わってしまッたのかもしれません。統率するテリトリーさえも広がり難かったのかもしれません。それではどうすればよかったのか、ということでまたサルたちは考え、色々と思考を重ねていった結果、脳は発達し続け、人間へと進化していったのでしょう。

 

 とにかく、サルたちが或は人間たちが長命を保つために共同体を生き抜いていくためには、どの時代であっても協力が必要だっただろうし、そのためにはコミュニケーションが必要不可欠で、多くの人と和解しなければならなかったと思います。秩序らしきルールが当然必要になってきたわけですかね。お互いに決まり事を決め、みんなが同じように平和に暮らせるように取り決めを作ろうとコミュニケーションをとろうとしたのです。これこそが「言葉」の誕生を招き、次いで「文字」の誕生をも引き寄せたのではないでしょうか。「言葉」だと、言った、言わなかったという真偽の争いが昔は現れたことでしょうから、しっかり「文字」を使って取り決めを「残した」のでしょう。

現在に例えるならば、法律を制定し、裁判所を設置し、政治を行うような社会体系ですかね。そこでは当然、事実の証拠を示す道具として文字が大活躍しています。今でも何か重要な取り決め文書や契約書には「直筆」でサインをしますよね?あれって、何故今でも直筆なんでしょうか。IT社会はどんどん発達しているというのに?

 

 かなり大胆に大まかな人類の誕生と言葉あるいは文字使用までの流れを勝手に想像してきましたが、言葉あるいは文字の画期的な人間たちの発明品は、暴力以上に大きな「権力」を手にすることに成功したわけです。それは、多くの人を統率する力(パワー)を持ち、自分たちの生命をも守り続けられる魔法のアイテムに取って代わったのですから。

 

 こうした流れを想像すると、「何故、多くの人は文字を学ぼうとするのか」という問いかけの本質的な答えは見えてきませんか?ズバリ、人との「つながり」、あるいは「コミュニケーション」を取りあってゆくことによってお互いが協力し合い、自分の生命をより安全に、より豊かに維持できるようになり、より的確に思い通りの生涯を送られるように、人は文字を学びその大切さを共有しようとしているからではないのでしょうか。

 

 それでは、「文字の本質」とは一体何だったのでしょうか。それもズバリ、「文字はエネルギー」だったと思うのです!

 

 

 

  文字はエネルギー

 

 何故「文字はエネルギー」だったかというと、私たち人間は文字を学びたがります。それは、自分の生命をより安全に、より豊かに保持するために隣人とつながり、コミュニケーションをとりあい、協力し合ってゆくための貴重な手段であったことは前述しました。要するに、「生き残り」を賭けた大切な道具なのですから、私たちの生命体に付随する大切な道具(=文字)なのですから、ある意味、一種の具現化された「目に見えない生命体」(=エネルギー)だと考えたわけです。「目に見えない」というところに注意してください。何か思い出しませんか?そう、本稿の冒頭で取り上げた日本の文化である「氣の概念」です!これも、「目に見えないもの」でしたよね?

 

 「エネルギー」と「氣」というものが同じものかどうかという議論は別問題として、それらの似たような「目に見えないもの」がどれだけ私たちの生命体に貢献しているのかということに注目して頂きたいのです。「文字」というものが、その「目に見えない何か」を具現化したものであるということに注目したいのです。その具現化された「文字」は私たちの生命に深く関与しているのですから!この文字エネルギーを駆使して、複雑な世の中と調和し、生命を維持しようとするのですから、この「文字エネルギー」がもつパワーはスゴイと思いませんか?しかも、「氣の文化」を持つ日本人が使うその文字は他の言語が持つパワーよりはるかに強いかもしれません!?

 

 日本文字について考えてみると、その起源は私たちが小さい頃に習ったように中国にありました。所謂、甲骨文字ですね。古代エジプトのヒエログリフをはじめとした象形文字の中国版がこの甲骨文字でした。発祥した時期は未だに厳密にはわかっていませんが、約紀元前16世紀以上も前と言われています。随分、昔のことすぎて気が遠くなりますね。

 

 日本で初めて文字が到来したのは、皆さんもよくご存じのあの「漢委奴国王」の金印(紀元57年)。でも、その時には文字の普及までには至らず聖徳太子が出てくる飛鳥時代まで待たなくてはなりませんでした。

 

 こうした歴史的な流れも考えてみると、必然広範囲の領域を統治するにはある規則が必要になり、必然的に文字が誕生したわけです。

文字の発明により共同体は急速に発展し、拡大し、世の中は統治され、コミュニケーション力は莫大に広がり、人々はつながり、お互いを支配し、支配されるようになったわけです。

 

 

 文字が「パワー」を持っているという証拠は身近にあります。それは何だと思いますか?いつも私たちはそれを肌身離さず持ち歩いています。そう、お金です。文字と言っても正確には数字ですが、数字も文字も同じ機能を持っていると思います。人間社会に共通する概念またはお約束事、あるいは決まり事なのですから。 私たちは皆、この紙切れをたくさん獲得するために汗を流しています。この人類の(文字の)発明品はとりわけスゴイと思います。このお金のおかげで随分と生活は便利になりましたし、豊かにもなりましたから。世の中の発展も加速しました。一方で争いも増大したのは確かでもあります。この(文字)エネルギーは巨大ですから。

 

 その文字エネルギーがどれだけ巨大であるかを確かめるのは簡単です。仮に皆さんの手元に一万円札があったとしたら、それを目の前で破ることができますか?たいていの人は破れないと思います。(できれば、破れる人に会ってみたいくらいです!)

もし、それがお札のカラーコピーだとしたら、きっと躊躇することなく破れること思います。同じ紙切れなのに、何故なのでしょう?

 

どこかで聞いた話だと、日銀でお札一枚を作るのにかかるコストは20円ぐらいだそうです。もしかするとカラーコピーより安い?かもしれない単なる紙切れであるお札が何故破れないのでしょうか。

ここにまさしく、「目に見えない意識エネルギー」が作動しているからなのです。私たちが数字(または文字)を使って注入した「目に見えないエネルギー」。それは人間たちが社会の便宜のために、或は生活をより豊かにするために編み出した人類の画期的な発明品だったのです。私たちはこの一万円という紙切れに、私たち皆に共通する「価値観」を与え統一させたのです。この「価値観」というもの自体は「目に見えないもの」なので、何か実際に「もの」として形に変える(具現化する)必要がありました。このお金の発明品も、結局のところは私たちの生命維持につながるアイテムとして編み出された「内部エネルギー」だったのです。高が紙。然れど紙。これも、文字が隠し持つ「エネルギー」の典型的な一例だったのです。

  筆文字の凄さ

 

 「文字」が持つパワーをご理解いただけたら、必然的に書かれた筆文字のパワーはもっと凄いことにお気付きの方もすでにもういらっしゃるかもしれません。今、日本でご活躍中の書道家、武田双雲さんもその凄さをある本の中で語っておられました。私が以前から思っていたこと、あるいは感じていたことを見事に武田さんは代弁して下さったようでとても感激しました。その抜粋を以下に紹介します。

 

 私達一人一人の頭の中には、毎日たくさんの言葉が飛び交って処理されています。ぼやけたイメージが言葉によって意志になり、それが口を介して音を作って外に伝わります。しかし、それだけでは言葉は時間の流れとともに消えていきます。そこで文字が活きてきます。うつろいやすい言葉の世界を物理的に目に見える形に具現化するのが文字です。そしてただ記号としての文字に人間の美意識が加わったものが「書」です。大きな力を持った「言霊」を文字として具現化する。それに美意識が加わったときの力はとてつもないのです。

             (武田双雲著、『「書」を書く愉しみ』本文より)

 

 

 皆さんが書く字は十人十色。同じ人が書いた字でさえ道具や気分や書く時間帯や疲労度などの健康状態で違うことは、皆さんも経験したことがあると思います。しかも、毛筆だとその違いが顕著に表れます。あまり使い慣れていないので扱い難いですし、自然と集中力は増しますし、緊張しますから。でも、緊張したときのその震えは、運筆時に私たちの内部に流れているエネルギーがそれを引き起こしている証拠だったのです。その「目に見えない内部エネルギー」を形にしたものが文字で、その文字の中には色々な情報が内包されていたのです。

 書道のお稽古には臨書と呼ばれる書き写しの練習を行います。それは、ただお手本の真似を上手に行うということだけが目的ではなく、二千年も三千年も前に生きた先人たちのエネルギーが注入された字たちをなぞりながら、それを読み解き、受取り、そして自分の内部を通して生まれるエネルギーを今度は発信させる過程でエネルギーの循環を促進し、自分の中に幸福を宿らせていくことが、この臨書の本当のねらいなのではないかと思います。

 

このように、何千年も前に生きた人の生涯(エネルギー)を文字を通して読み取ってゆけるという楽しみが書道にはあるのですから、堪りませんよね。特に、日本人が漢字を元に編み出した「ひらがな」や「カタカナ」の文字は日本独自の感性が表現されていて素晴らしいと思います。

 

 文字は私達の豊かさなのです。私たちが生み出すエネルギーは唯一無二。そこに、上手も下手もなく、綺麗なときもあればそうでないときもあります。ただそれは、その時の私たち自身の内部に流れる「目に見えないエネルギー」が具現化されたものというだけで、絶えずそのエネルギーは水のように形を変えながら流れ、雲のように流れているだけなのです。

 日本語教師という立場から文字教育を考えたなら、まず私達教師自身がこれらの文字が持つエネルギーの凄さに気付き、感じ、学び、深めていき、そしてその喜びを生徒さんたちに分かち合ってゆけたなら、本物の漢字教育となり、「楽しい」文字教育となってゆけるのではないかと思います。

 

 

  楽しむこと

 

 人間は忘れる生き物です。いくら苦労して何回も綴って練習して覚えた漢字でもある日突然、度忘れしてしまうことがあります。このような経験は皆さんも体験したことがありませんか。私はしょっちゅう忘れます。

 漢字嫌いな学生やなかなか覚えられなくて難しいと嘆く生徒はたくさんいます。私のある生徒は、「漢字は覚えられないので諦めました~!」ときっぱりさわやかに諦めて言う学生さえいました。その学生は日本語を上手に話していましたし、漢字も十分書けていたのに、「漢字の面白さを学ばずに諦めるとか言うなんてもったいない!」と思ったほどです。

 日本語学習は(他の教科も同様でしょうが)時間的な制限もありますし、漢字学習ばかりに時間を費やすわけにもいきません。何事もバランスが必要ですから漢字学習ばかりに偏ってしまっては能率よく日本語をマスターすることはできません。

私が個人的に取り組んでいる方法は、何事も時間に制限があるのだから効果的に学習するには、限られた時間を思いっきり楽しんで使い切る(消化し切る)ことに専念しています。書道教室においても日本語教育においても、限られた時間の中である学習内容の面白さを伝えることができたならば、その先の学習は各自でバランスをとらせながら独学で進められればいいのではないかと考えています。結構、いい加減な教師だとお怒りの声も聞こえてきそうな気もしますが(笑)。

なぜなら、この項の冒頭でも申し上げましたように、人間は忘れる生き物だからです。「忘れるくらいなら、思いっきり楽しむしかない!と思ったからです。結構、楽しむと心が通いますし、感動したりもしますので、「何か活き活き」として、気持ちがいいと思いませんか?感動は生きる力になるのですから。

 

 お話を少し戻して、私のある学生がきっぱりさわやかに告白した漢字学習の諦めに関する話のついでに、少し「諦める」の漢字について取り上げます。この字は個人的に笑みがこぼれるくらい面白かったからです。

 「諦める」の漢字は、「言」と「帝」を合わせて作られたものですね。右部分の「帝」という字は象形文字らしく、三本の垂れた線を一印でひとまとめに締めたさまが描かれたものだそうです。「みかど」とか「帝王」と呼んで地上を収める支配者の意味として使われますね。それに、「言」の字を付け加えると、「たくさんあるものを(一言で)一つにまとめて断念する」とかいった意味となり、「諦める」という字が成立したのでしょうか。「読めば字の如く」とは私の母親も昔はよく言っておりましたが、この漢字にはすでにこれだけの情報が隠されていたんですね。この漢字の語源と私の学生が胸を張って堂々ときっぱり、さわやかに漢字を諦めたと言っていたこの学生の姿と表情を思い浮かべると、とても可笑しくなった瞬間でした。あの学生が私に面と向かってさわやかに「諦めた」と言ったときには、私も気持ちがよくなったくらい潔い行為でしたし、この漢字の語源を学んだ時にはその学生の仕草と漢字の語源がぴったりリンクして可笑しくなったのです。きっと、この学生は漢字が嫌いというより、あまりにも漢字がもつパワー(エネルギー)を感じ取り、「とてもじゃないけどそれらのエネルギーを一つ一つ把握していくことは困難だ」と漢字のパワーに圧倒され、無理だと思ったのかもしれません。

 でも、確かに前述したように、私達人間はいくら頑張って学習したものでも呆気なく忘れてしまう生き物です。私も実際フランスに住み始めてから、母国語である日本語なのにすぐ単語が出てこないという場面や、漢字を度忘れするケースはだんだん多くなっていきました。当初は恰も自分の存在が疑われたかのようで結構ショックでした。大袈裟かもしれませんが、「自分は一体何者だ?」という不安定な状態に陥り、自分の存在が脅かされたかのようで...。自分のアイデンティティーが不安定になり、自分を見失ったのでしょうか。フランス語も駆使できなかったのでフランス人にもなりけれず、それだからと言って日本語を忘れるぐらいで純粋な日本人にもなりきれず、一体自分は何者か、といった具合で?

だから、どれだけ覚えても忘れるぐらいなら「楽しむしかない!」と思ったのでした。

 この学生との体験からも、漢字を覚えさせるのではなく、「楽しませる」ことの方が大事だったということを学びました。今ではこの体験を、日々書道教室においても日本語教育においても胸に抱きながら取り組んでいます。すると、教える側もグーンと面白くなりました。これはお勧めです。ただ教師たちが面白そうに取り組んでいる姿を見せているだけで、生徒たちも自然とその学習に没頭していき、道連れとなっていき、苦労する感もなくなり、只々楽しい感だけが残り、学習能力もアップしてゆけるのではないかと思います。思い返すと、自分がそうであったように...。憧れる先生や面白い先生の授業は楽しくて、皆さんも好きではありませんでしたか?

 

 

  感じること

 

 ここで、いきなり皆さんに質問です。(図3)の作品を見て下さい。皆さんはどのように感じますか。

 

(図3) タイトルなし

 

 

「下手くそ!」「何じゃそれー?」「すごーい!」「…(ノーコメント)」他、色々とご感想はお持ちかと思います。色々と私の作品を吟味して頂けるだけで、どんなに有難いかと本心思います。たとえそれが不評だとしても。裏を返すと自分を、または自分の作品をあれこれ議論して頂けるということは、自分の存在を受け止めて頂いていた証拠であるとも言えるのですから。ほんの一瞬でも自分の存在を他人が気に掛けて頂けるのはうれしいものです。無視される方がもっと淋しい気がします。

 一方ではまた、自分の作品をジロジロと凝視されるのが何だか恥ずかしい時もあります。何だか自分の丸裸の姿を至近距離で見られているかのようで...。誰でも裸の姿を凝視されると、何か居心地が悪くなりますよね。何せこの書作品もまた、私の丸裸の分身(エネルギー)なのですから...。文字ですけど。

 

 あるフランスの町の展覧会でこの作品を展示しました。色々な人と出会い、意見を交換する中、一人の高齢のマダムがいました。その人はこの作品を見て、すぐに顔をしかめてこの作品を見ていたのです。私がこの作品についてどう思うかと尋ねたところ、この女性は私に即座に言ったのです。「この作品は何か苛立ちながら書かれたようだし、荒々しい感じがしてあまり好きじゃないわ(嫌いだ)」と。

 当然、この意見を聞いた直後は正直ショックでした。しかも、作品を書いた当の本人に直接はっきりとここまで嫌いと言われてしまっては、何だかしょぼくれますよね。嫌われるのはあまりいい気がしませんし、この作品がこの女性の気に入ってもらえなかったことを残念に思いました。でも、少し時が経って思い返したところ、自分の書が全ての人の気に入ること自体が不自然なことで、不可能じゃないかと思ったのです。そんなことよりも、その女性が作品を手掛けた私自身に向かって素直に自分の感情を打ち明けて頂いたことを、後ですごく嬉しく思いました。なぜなら、私のエネルギーをその女性は良きにしろ、悪きにしろ、しっかりと受け止めてくれたのですから。好き嫌いの評価は別として、自分を受け入れて頂けるということは誰でも嬉しいことです。その女性がこの原稿を読むことはないと思いますが、ここに感謝の意を表したいと思います。 

 

 実際、私はもちろんこの作品を書いたときの状況、精神状態をよく覚えているのですが、なぜこの女性がそのようなエネルギーを感じ取られたのかがわからないのでもありません。色々な感情が混在する中、心をできるだけ無にした状態で揮毫した作品で、自分でも仕上がりに驚く部分もあった書でした。本稿でも繰り返し言及してきましたが、私たちの内部には「エネルギー」が流れています。「目に見えないもの」の正体がエネルギーでしたね。その内部エネルギーは絶えず様々な感情を乗せて流れているのです。無の精神状態の中で揮毫される書は、筆という筆記具を通して、更には墨色や紙質の状態、筆圧や余白、呼吸や空間との調和を計りながら数本の線質で表現されます。仕上がりの良し悪しは、書家の美意識によって異なりますが、当然その美意識の中にはバランス関係が重要になってきます。均整がとれて滞りもなく自然体で運筆された書作品はいい作品であるとするのも、一つの評価基準と言えるでしょう。つまり、エネルギーが分散しようとする字をうまくコントロールしながらも、コントロールしすぎずに自然体でその瞬間のありのままの状態を文字を通して表現していける作業が、書道家に求められるお仕事ではないかと思うのです。その過程の成功具合によって作品の出来栄えが決定されるのかもしれません。

 

(図3)の書はどの作品も同様に不完全にして完全な書なのです。ですから、ご覧いただいた方々の様々な意見は貴重なもので、感じ方も人様々なのです。自分でも自分について知らない部分を他人から指摘され、教えられることも多々あります。きっとこのマダムが指摘されたように、この作品には自分の中に潜む荒々しい自分も現れていたのでしょう。皆さんはどのように感じましたか。

 

 一方、この女性のエピソードとは真逆に、この作品を絶賛して頂き、即購入の申し出をして頂いた男性もいました。それにもまた、正直私は驚きました。この作品が極端に嫌いな方もいれば、極端に好きな方もいらっしゃる事実。そんなに魅力を隠し持つ書を自分が書いたのか、と自分を疑ったりもしました。その男性が語るには、「この作品は宇宙の成り立ちを想起させるし、パワーがある。まさにビッグバンだ!」と笑いながら話して下さいました。この人の感想にも仰天させられました。というのも、確かにこの書に込めたメッセージは普遍的なものだったからです。この男性もきっと、自分が表現したかった「目に見えないおもい」をしっかり感じ取って頂けたのだと思います。この方にもこれだけ正直に自分の感情を打ち明けて頂いたことに感謝します。

 

 ところで、この作品に描かれた文字は、実は自分がモットーにしている「楽しむ」という漢字だったのです。「あーそうだったのかー!」「へぇ~...」「うそー!」「なるほど~」など、皆さんは色々とご反応されたことと思いますが、展覧会ではローマ字で«RAKU»として展示しました。本稿ではタイトルを隠し、皆さんの反応を自由に開放し、少し「楽しませて」頂きました。

皆さんの自由な感性や発想をあまり阻害したくはありませんので、これ以上余計な詳しい解説は省略させて頂き、皆さんの自由なご想像力に全てお任せすることにします。ご意見、ご感想等ございましたらご遠慮なくお便りください。

 

 

 

とにかく、この漢字に込められた私の内部エネルギーの情報や思い、ストーリーはたくさん隠されているので、各自お楽しみ下さいませ~!

 

 

 

あとがき

 

 漢字にはあまりに知られていないストーリーが沢山隠されています。ある漠然とした概念に形を与え、具現化された文字。この中には数知れない先人たちのエネルギーが宿り、引き継がれているのです。時代と共にその形を変えてしまった文字もたくさんあります。その文字たちを今度は私達現代人が時と場合に応じてそれらを駆使しながら新しい表現の道具として引き継いでいます。きれいな字の時もあれば汚い字の時もあります(お医者さんの蛇のような難読な字もそうですね)。それらの文字は現代のコミュニケーション手段として、私たちの内部の世界を外部の三次元の世界へと形を創って表現されていたのです。

 

 「実現」とはよく書かれたもので、「リアルに実が表に現れる」と書きます。皆さんも自分の中に宿る素晴らしいエネルギーを表(この世)に実らせられるよう、日本語教育の場に限らず実現されることを心より祈っております。

 

 文字は本当に凄い!この文字たちが、どれだけ私たちに幸福をもたらしてくれているのかを感じずにはいられません。文字は私達の豊かさなのです。そのことを心に置きながら、指導者たちは文字教育を楽しみながら携って頂けたら幸いです。